本学柔道部の練習環境は全国に名高く、日本屈指の質を誇ります。社会人、海外代表選手が出稽古に訪れ、部員と合わせれば100人以上。軽量級から重量級まで、世界トップクラスの選手たちが切磋琢磨しています。この環境に身を投じ、100㎏超級でパリ五輪の切符を掴んだ、本学体育学部の斉藤立選手が今春卒業しました。卒業前の2月、斉藤選手の本学への思いと五輪への覚悟に迫りました。
<2024年2月26日取材?多摩キャンパス>
国内最高の環境で
斉藤さんは部のエース。今回、2024年パリ五輪の柔道日本代表にも選ばれました。190㎝、170㎏の体躯は、ひときわ目を引きます。卒業後はジャパンエレベーターサービス株式会社に入社し同社柔道部に所属することが決定しています。本学の魅力を聞きました。
「出稽古の選手がすごいのはもちろんですが、国士舘は各階級の日本トップクラスの学生が揃っています。間違いなく国内屈指です」
国士舘は特に寝技を徹底して磨くことで知られています。立ち技に加えて寝技が強いということは、すみずみまで技や体を鍛えている証だそう。
「寝技は相手の体力を奪います。立ち技はどこも練習しますが、本当に寝技が強いところは少ない。国士舘の柔道はそういう泥臭さがある。自分には理想的でした。卒業したら今度は自分が出稽古で訪れる番。技を磨き、学んだことを後輩たちに伝えるため、4年間過ごした柔道部寮の近くに家を借りました」
この発言こそ、本学の環境が柔道家にとって魅力であるなによりの証です。
「謙虚であれ」
斉藤さんが”選手”として覚悟を決めた転換点は12歳の時。病魔で父親が他界したことがきっかけです。この事実を日本の柔道界で知らぬものはいません。ロサンゼルス五輪、ソウル五輪で柔道95㎏超級2連覇を成し遂げた斉藤仁氏その人だからです。
「幼少期から父に柔道を教わりました。存在の大きさを理解できるようになったのは他界した後のこと。教えを反すうするようになり、柔道家としての意識が芽生えました」
特に大切にしているのが「謙虚であれ」という教えです。
「父は高校、大学と国士舘。引退後は体育学部で教鞭を取り、柔道部の監督として指導に当たっていました。その先輩に当たる方が、自分の中学校柔道部の指導者でした。この方の推薦で国士舘高校へと進むことになりますが、高校柔道部の岩渕公一監督(当時)は父の先輩です。大学の鈴木桂治監督(当時)、吉永慎也監督もまた父の後輩に当たります。優れた指導者に恵まれたのも、父から続く国士舘とのご縁があったからこそ。感謝しかありません」
- 柔道場には父である斉藤仁元監督の写真が飾られている
縁ある五輪へ
パリ五輪への思いを聞きました。
「勝つ自信はあります。大口ではなく、このくらいの意気込みは最低限必要だと感じています。今は、練習を積み重ねること、けがをしないことに集中しています。」
実は斉藤さん、パリとも縁があります。フランスの航空会社で働いていた母親が暮らした街なのです。さらに、4年後の28年、五輪が開催されるロサンゼルスは父がメダルを手にした土地。不思議なつながりを感じます。
「自分には”立場”があると思っています。父のものでもあり、国士舘のものでもあります。これは重圧ではなく、自分を奮い立たせる力です」
大学への思いは人一倍です。
「国士舘の存在は特別です。高校時代も含め、一緒に汗をかいた仲間に対しての思いは尽きません。団体戦の楽しさ、喜びを学べたのも国士舘だから。4年間、目一杯柔道をやり切れたことに大きな価値と感謝を感じています」
誰もが応援したくなる存在感。愚直に柔道に向かう姿からのぞく謙虚さ。24年夏、手にした縁のすべてを力に変えパリへ向かいます。
- 後輩の中村太樹選手と
国士舘大学柔道部 吉永慎也監督 談話
パリ五輪 「心技体」最後は気迫と意地
何事も「心技体」が揃ったときに、一番いい結果が生まれます。組手、立ち技の精度を維持することに加え、国士舘が強化する寝技にも磨きをかければ技術面では申し分ないと考えています。100㎏超級は有望選手が力をつけて来ており、全試合が気の抜けない戦いになることが予想されます。いかに心と体の充実が図れるか。そのためには「整理?選択?決断」をすること。課題や迷いを整理すれば、最適な選択肢が見えてきます。決断するのも本人。最後は気迫と意地の戦いとなるでしょう。
プロフィール
名前:斉藤 立(さいとう?たつる) 黄金城电子游戏_澳门黄金赌城-【唯一授权牌照】6年体育学部武道学科卒業
生年月日:2002年3月8日生まれ(22歳)
出身地:大阪府
出身校:国士舘高等学校
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「目指せ!国士舘から世界へ」バックナンバー:
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