ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
国士舘史研究年報2015 楓?26小野が中学校教員となった経緯ついては、小野自身、自分の知らぬところから話が舞い込んだように記しているが、当時の教員需給が極めて困難であり、教員水準のレベルダウンも懸念されていた状況からすれば、旧制の専門学校卒の小野が懇請されたことは必然であった。また、夏季休暇中には「教員認定講習」が義務付けられていた。これは当時が教員免許法成立以前であり、全てが「仮免許」の時代であるゆえの措置であった。一方、戦後民主化の象徴の一つである組合活動について、小野が勤務していた中学校では、日本教職員組合の立ち上げ直後から加わっていた。これは学校が都区内にあったこともあろうが、戦後における社会の急変が地域社会にもいち早く影響を及ぼしていったことを示している。CIE局長ニューゼントについては、今まで伝聞でしかなかった国士舘来訪の件について、「日記」から知ることができた。「日記」には三回登場する。最初の出会いは、至徳学園開学にあたり、その理念やカリキュラム等を学園全ての関係者に宣言した日である一九四六年二月一〇日。次いで、一九四七年三月二一日の卒業式で再会を果たした。その折に再び会うことを誓い合う。そして、翌年の卒業式当日、一九四八年三月二三日に約束は果たされている。小野は、会う度ごとにニューゼントの紳士的な人柄と、日本への理解に尊敬の念を深めていったことを記している。そうした印象は、ニューゼントの日本での履歴、すなわちCIEでの活動や発言をみての結果とも一致するものであった。具体的にみてきたように、占領期、CIE内では日本語の言語改革に関する文明破壊とも思える新案、「公用語の片仮名統一」と「ローマ字による言語改革」が浮上した。結果的には両案とも廃案となる訳だが、その最終段階において決着をつけたのがニューゼントであった。これは先に示したニューゼントの米国教育使節団を前にしての演説でも解るように、日本の置かれた状況をよく理解し、占領軍の都合ではなく、時間はかかっても「いかなる制度も日本の生活様式に適合したものでなければならない」とする深謀遠慮の改革を提唱したのである。ところで、ニューゼントが国士舘と縁を結んだきっかけについてであるが、残念ながら不明である。ただし、「日記」一九四七年三月二一日に、「鮎澤先生の御陰でニューゼント中佐殿と面会が出来」とある如く、おそらくは、当時、至徳学園校長を務めていた鮎澤巌との関係からと思われる。鮎澤は、すでに戦前からILO(国際