ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
「小野寅生日記」にみる戦中?戦後と国士舘25しかし残念ながら、ニューゼントは教育改革を遂行するにはきわめて弱い立場であった。その理由について、土持ゲーリー法一氏は、「マッカーサーとの個人的な「人間関係」から、ニューゼントの教育改革がことごとく妨害され、そのほとんどが挫折させられた結果となった。マッカーサーは、海軍士官を「毛嫌い」した。マッカーサーにとって彼の部下は陸軍人でなければならず、海兵隊員のニューゼントは軽蔑された。このように、ニューゼントは教育改革を遂行するにはきわめて弱いかつ困難な立場に立たされた。マッカーサーの部下は将官であったが、ニューゼントだけは中佐であった。ニューゼントに対するマッカーサーの評価も当然のことながら低かった」と分析している( (1 (。さて、「日記」に戻ろう。一九四七年三月二一日にある「亦一年後ニューゼント中佐殿と御面接の約束」はどうなったのであろうか。「日記」一九四八年三月二三日によれば、約束が果たされていることがわかる。中央労働会館に行き、鮎澤先生を訪問す。其処で小出及び余川氏と他本年度卒業生二名とニューゼント大佐に面接す。これで一年前の約束を果した事になる。ニューゼント大佐も教育の必要を述べ、今後の日本は教育の普及にある事を述べ、私達の前途に非常に感心と興味を持つておられた。亦、余川君には一年後の成果を手紙に依り報告して呉れとの事であつた。亦、話をしたい事があつたら何時でもいらつしやいと云はれ、此処に来る時は何も持つて来なくてもよい旨を述べられた。而して、亦、一年後にお会ひしたい様子であつた。それはニューゼント大佐が日本に居る間は。ニューゼントは、今後の日本再生のためには教育が重要であることを、それを担うであろう若者に対して伝えている。エールとも思える。ここでも知日派であり、親日の姿が顕れている。おわりに最後に、本稿で論じ得たことを整理してみたい。学生生活については、戦争末期でもあり、授業は、ほとんど体を成してはいなかったようであるが、全く学校に行かなくなったわけではなく、教員による講話等は日常的に行われており、また、勤労動員については学校の方から、日々指示が出ていたことが確認できた。