ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

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概要

国士舘史研究年報第7号

国士舘史研究年報2015 楓?152みると、一九五三(昭和二八)年の経済科(二部)と国文科を擁する国士舘短期大学創設時には「体育(実技?理論)」の専任講師、その後一九五六(昭和三一)年四月の短期大学体育科設置申請の際に「体育方法(柔道)」と、ようやく「柔道」の文字が確認できる。この頃には会田は国士舘のほかに法政大学や明治薬科大学でも柔道師範として指導し、講道館審議委員、講道館国際委員、全日本柔道連盟評議員などの要職も務めていた。一九五八(昭和三三)年に国士舘大学が創設され体育学部が開設すると、会田は体育学部教授に就任した。同時に、国士舘大学柔道部初代部長としても活躍し、後進の育成に力を注いだ。同年の五月には講道館柔道九段を授与され、また、年月は不詳だが勲三等の叙勲を受けている。会田は、法人の役員としても国士舘を支えた。一九五一(昭和二六)年頃には法人理事を務め、その後一時理事を離任するが、一九六六(昭和四一)年三月一四日に再び理事に選任されている。また、一九五七(昭和三二)年九月頃には評議員に、一九五九(昭和三四)年四月頃には監事に就任している。一九六六年三月一四日には監事を辞任するも、理事?評議員は亡くなるまで務めた。会田は常に教育現場の一線に立ち、後進の育成に力を注いでいたが、一九七二(昭和四七)年二月一八日、心臓麻痺のため世田谷区豪徳寺の自宅で急逝した。七八歳であった。会田の人柄や柔道に対する姿勢は実直?温厚篤実そのものであったようだ。嘉納治五郎の次男であり、講道館館長を務めた嘉納履正は「其技の美しさ稽古の優秀さは斯界の定評のある所」(嘉納履正「序」〔前掲『図解柔道』〕)であると評している。また、東京高等師範学校在学当時の師であった講道館十段長岡秀一は「在学当時より、鋭くきれいな技と、真摯な人格とによつて重きをなし(中略)その経歴よりしても、柔道指導者著述の適任者ありとすれば、君こそその人である」(永岡秀一「序」〔前掲『図解柔道』〕)とし、また、「知友」であり文部省文部次官を務めた西崎恵は「その技の優秀見事な稽古振り、人格の温厚篤実、柔道界稀に見る人物である」(西崎恵「序」〔前掲『図解柔道』〕)としている。国士舘でも教え子から慕われ、体育学部一期生の盛島博は「最初の柔道の授業で会田先生は『諸君は将来立派な柔道教師になるのであるから、正しい姿勢で組み、正