ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
会田彦一147イギリスでの教授経験により自信を得た会田は、一九二三(大正一二)年、ドイツにも柔道を普及させるべくベルリン行きを計画するも、当時のベルリンは第一次大戦の痛手から排他的で、外国人の入国の許可が得られなかったため、ミュンヘンで警察学校やミュンヘン柔術クラブを中心にその普及に努めた。翌年の一九二四(大正一三)年には、第八回オリンピックパリ大会でレスリング審判員およびレスリング日本代表選手内藤克俊のマネージャーを引き受けている(ちなみに、柔道がオリンピック正式種目として登録されるのは、一九六四〔昭和三九〕年開催の第一八回オリンピック東京大会からである)。当時の日本ではレスリングは全く行われておらず、指導者もいなかったが、会田がオリンピック日本選手の応援のために会場を訪れていたところを、内藤と旧知の仲であり、さらに会田が当時柔道五段で内藤の練習相手にも最適とのことからマネージャーを依頼された。内藤はもともと講道館柔道二段を取得するほど柔道を修めていたが、一九二〇(大正九)年にアメリカのペンシルバニア州立大学へ留学し、レスリング部に入部すると、学生チャンピオンに昇りつめ、部のキャプテンとして活躍していた。一九二四(大正一三)年に駐米大使であった埴原正直から日本体育協会に内藤をレスリングのオリンピック代表選手に推薦する手紙が送られ、それがきっかけとなり内藤が日本選手代表に選ばれたのである(第一八回オリンピック?メモリアルグッズコラム 三上孝道「内藤克俊の銅メダル~レスリング界初のメダル」〈http://www.joc.or.jp/column/Olympic/goods/20070426.html〉アクセス:二〇一五年一二月二日)。内藤はこのオリンピックで見事第三位の成績を収め、銅メダルを獲得した。この第八回オリンピックパリ大会における日本代表選手のメダリストは唯一内藤のみであり、日本レスリング界初のメダルとなった。内藤は大会後に、柔道とレスリングについて「日本では柔道と会田彦一と内藤克俊(『オリムピツクみやげ―第八回巴里大会記念』掲載)