ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

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概要

国士舘史研究年報第7号

国士舘史研究年報2015 楓?140く、それに対して市街地の家庭では日常、ブラジル語で会話していることが多く日本語力は低いようでした。週末は生徒の家庭に招かれ、夕食をご馳走になることがよくありました。あるご家庭を訪問した際のことです。そのお宅では祖父の代にブラジルに渡り、生徒は日系三世になるのですが、立派なお宅に招かれ玄関掲げてある写真の前を通った際に「先生だめだめ、陛下のお写真だから」と言われました。振り返って見ると明治天皇陛下の御真影が掲げてありました。私はびっくりして頭を下げましたが、コロニアの日系人の家庭では皇室に対する考え方を、しっかり伝承させていることにとても驚かされました。日本語教師海外派遣事業のその後昭和五八年の事件及びその後の学内の混乱により、ブラジルに限らず海外派遣事業が縮小されていきました。日本語教師派遣事業も人数が削減され段階的に縮小されていきます。最後まで残った本藤直浩と櫻田博が一九八七(昭和六二)年七月に帰国して本学の海外日本語教師派遣事業は終了することになります。派遣されていた教師達はその後、インドシナ難民を多く受け入れていた横浜市菅田団地で難民子弟のための日本語補習授業へシフトしていくことになります。帰国した派遣教師達は鷹取、野村、苫米地が大学付属図書館へ、櫻田と本藤は広報課、峯と薬師寺は文学部事務室、鈴木は人事部別室とそれぞれ異動となりました。しかし櫻田は日本語教師を続けるため退職し、その後単身で渡伯しジャカレイ日本語学校の教師を引き継ぐことになります。採用された当時、私達が聞かされた国士舘大学のブラジルでの将来構想は、「武道を必修として日本の伝統文化を中心にすえた、日系人もブラジル人も受け入れる幼稚園から大学までの総合学園を創設する」という壮大なものでした。残念ながら計画は三年ほどで撤退することになりました。財務面?計画面で最初から実現は厳しかったのかもしれませんが、もし実現していたら今の国士舘は違った学園になっていたかもしれません。池上先生は、「当時、日本からブラジルに派遣されていた日本語教育の専門家は国際協力基金(JF)と国際協力事業団(JICA)から各一名のみで、その方は日本語教育のベテランで現地の日本語教師の指導が役割であった。当時のブラジルの小学校教育は二部制で同じ施設を午前?午後と教師も児童も入れ替わることが当たり