ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
国士舘史研究年報2015 楓?136社会問題から国際問題にも発展していきます。その他、私達の日本語教育の指導役としてブラジルでの日本人学校教育の経験豊富な中島博行先生が着任されました。私達は昭和五八年一月から適宜指導を受けることになります。中島先生は東京都で小学校の教員を勤められた後、ミナスジェライス州バルジニアにあった三菱系企業内日本人学校に勤務されていました。私達は、四月一日に採用辞令をいただき全員国際部に配属されました。当時の国際部は世田谷キャンパス八号館一階の現在のキャリア形成支援センターの場所にありました。八号館は国士舘中学?高等学校の校舎で国際部の隣は体育教官室と文書課のタイプ室。向かい側には電話交換室があり、なんとも雑居ビル的な雰囲気がありました。国際部は海外勤務の教職員との連絡調整を含め、現在の国際交流センターの前身的な役割を果たしていました。私達は国際部の所属ではありましたが、幸いにも日本語教育の習得に集中できるよう配慮されていました。東京学芸大学の帰国子女クラスで帰国子女教育の授業や檜原村立檜原小学校数馬分校における、へき地教育(複式授業)の実践などを見学しました。普段は鶴川校舎の一四号館一階の図書室で、日本語指導法やブラジルでの学校経営について指導を受ける傍ら、文学部事務室の業務補助をすることもありました。渡泊前には町田駅近くの千寿閣で文学部職員の方々が送別会を開いて下さいました。当時の村田駿事務長補佐が送別のご挨拶をされた際に感極まって号泣されたことを覚えています。ジャカレイ市についてさて私達が住むことになったジャカレイ市はどんなこところだったかと言うと、ブラジルの経済の中心地サンパウロ市からリオデジャネイロ方面に高速バスで約一時間、距離にして七〇㎞位のところに位置しています。人昭和58 年6 月12 日 開校式(左より式辞を述べる筆者、瀬戸口先生、本藤氏)