ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
ジャカレイ日本語学校と日本語教師派遣事業135「天の声」だったとのことです。ブラジルでの国士舘大学の拠点候補地を探すため、総長一行が視察に訪れたジャカレイ市で、ブラジル日本文化協会の役員と話す機会があったそうです。その席で入植者の方々が自分の子や孫の二世三世の日系人が日本文化を知らず、正しい日本語を話せなくなってきていることに危機感をもっている。また、日本語を教えている先生の高齢化により日本語学校の運営も厳しくなっているという話題があがったとのことです。そこで柴田総長が「国士舘は武道や教員養成で実績があるので協力しましょう」と応えたことが発端になったようです。現地の方は日本語教育の専門家を派遣してくれるものと期待されていたようですから、大学出たての右も左もわからないような若造が来るとは思っていなかったかもしれません。大学内の合意形成がどのようになされたのか詳細はわかりませんが、それ以後は柴田総長のトップダウンで進行していったようです。それから一年後の一九八二(昭和五七)年の四月。鶴川校舎一四号館一階の文学部掲示板に日本語派遣教師募集案内が掲示され、当時の文学部教育学科初等教育専攻四年生だった櫻田博は、一晩寝ずに悩んだ末募集に応じる決心をしたそうです。その後、他の四年生五人が申し込むことになりますが、それは夏の各都道府県の教員採用試験の後になります。私達は、一一月に実施された学校法人国士舘の職員採用試験を受験し、六人全員が無事に内定をいただきました。それから毎週土曜日に二時間、ブラジル語(ポルトガル語)研修が始まり、それは渡泊するまで続きました。担当して下さったのは岡田スエリマリヤ郁香先生でした。岡田先生は日系二世で体格も立派なら性格も豪放磊落な方でした。授業は世田谷校舎五号館三階のラグビー部の用品が納められた倉庫のようなところでした。また、新宿住友三角ビルにあった日本語教師養成講座にも週一回通い日本語を教えるための基礎を学びました。当時はまだ日本語教育の認知度が低く、日本語を母語としない外国人のための日本語教育は黎明期から脱していませんでした。中曽根首相(当時)が提唱した「留学生一〇万人計画」が発表されたのがちょうど昭和五八年でした。しかし、その結果日本語教育バブルが起こり脚光を浴びるようになりましたが、留学生の入学金や授業料をだまし取る悪徳日本語学校が乱立することになり、