ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
国士舘史研究年報2015 楓?134し補助金を出していました。今でいうバイオエタノール車です。トウモロコシから抽出したアルコール車の排気ガスは独特の匂いがあり、それが街中に漂っていたのでした。当時の為替レートは一USドルが二四〇円。当時のブラジル通貨はクルゼイロでしたが、一〇〇ドルが七万クルゼイロほどでした。現地の最低賃金が三万クルゼイロでしたから一か月二〇〇ドルもあれば十分余裕のある生活ができる水準でした。まず、ジャカレイ市に着くと現地在住のブラジル日本文化協会の皆さんが熱烈に歓迎して下さいました。早速その日の晩には、シュハスカリア(串焼き肉のレストラン)で歓迎会を開いていただき、皆さんから「本当によく来てくれた」との歓迎の言葉を頂戴しました。肩をバンバン叩かれ、節くれだったごつい手で痛い程の握手をされ、期待の程をひしひしと感じました。なぜ私達が日本語教師として派遣されることになったかをお話しなければなりませんが、それは国士舘大学の日本語教師派遣事業がどのように始まったか二年前の一九八一(昭和五六)年に遡らなければなりません。当時文学部事務室で学生主事を務められていた池上貞男先生によりますと、きっかけは柴田梵天総長からの昭和58 年6 月6 日 渡伯当日(於成田空港、左から本藤直弘氏、鷹取寛之氏、筆者)