ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
ジャカレイ日本語学校と日本語教師派遣事業133一九八三(昭和五八)年六月六日、鷹取寛行、本藤直浩、私の三人は大学関係者、家族に見送られて成田空港からブラジルに向けて旅立ちました。本藤直浩、私の二人はサンパウロ州ジャカレイ市のジャカレイ日本語学校へ、鷹取寛行は同州サンジョゼ?ドス?カンポス市の松下電器産業株式会社が駐在員子弟向けに設置した日本人学校へ赴任するためです。私達は同年四月一日付で学校法人国士舘に採用され、国際部に配属されました。既に前年度、峯経治と鈴木輝一がサンジョゼ?ドス?カンポスの日本人学校へ赴任していました。私達はその第二次海外派遣日本語教師としてブラジルに渡ったのでした。その後、薬師寺幸、野村加奈子の女性二人も第三次で続くことになります。皆に共通するのは文学部教育学科初等教育専攻の卒業生ということです。当時、ブラジルへの直行便はなく、アメリカ経由で一日半余りかけて飛行機を乗り継いで行くしかありませんでした。私達も成田から八時間かけてロサンゼルスまで行き、給油のための三時間のトランジットからペルーのリマを経て、リオデジャネイロで国内線に乗り換え八回の離着陸の末サンパウロのコンゴニャス空港に到着しました。我々にとっては所要時間三六時間の長旅でしたが、それを長旅と言ったら一九〇八(明治四一)年に笠戸丸で約五〇日間かけて最初にブラジル移民として入植した方々に怒られてしまうことでしょう。まず、空港に降りたって印象的だったのは独特な匂いでした。ブラジルは産油国ですが外貨獲得のため石油は輸出に回し、国内ではアルコールを燃料とする車を推奨文学部教育学科初等教育専攻一四期生 苫米地 示路ジャカレイ日本語学校と日本語教師派遣事業国士舘の思い出