ブックタイトル国士舘史研究年報第7号
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国士舘史研究年報第7号
食堂アルバイトと寮生活で得たもの119活なので目覚まし時計も使えないので、絶えず時間を気にしていて目を覚まし、二時頃であるとまだ一時間寝られる。さらに、二時三○分頃になるとまだ三○分寝られる。それも一か月くらいになると心身が順応して来て自然に目が覚めるようになって来た。配達は一時間くらいで終わる仕事なので広告を挟み込んでもバイト代は安かった。このままでは生活できないので思案に暮れていたが、七月一五日、会計課の今泉さんから「九月から食堂のアルバイトをしないか」と勧められた。三 活路が開けた食堂でのアルバイト早速舘長宅で面接を受ける。私の順番がきた。「手を見せなさい」。両手を差し出すと「君は奇麗に爪を切っている。食べ物を扱う人は清潔でなかったらいけない」と言われ運よく採用される。この時家庭の事情により学業続行が困難となった剣道部の鈴木重信(福島)と、舘長愛馬の世話係荒井隆(新潟)と時習寮七号室となる。この出会いが生涯の心友となる。九月一七日から働き始めた。最初の仕事は「米磨ぎ」と「釜洗い」が主であり、慣れるにしたがって「飯炊き」に進んだ。五つの釜があり、薪に火を付けるには新聞紙を堅く握り潰して火を付け、その上に薪を載せると火付きが良かった。二○分前後で釜の後方八割ぐらいが炊けてきて、蓋を取り、釜を手前に一八○度廻してから、手前に溜まった水気を取り、種火で五分間ぐらい蒸すと美味しい飯が出来上がった。寒い時の「米磨ぎと釜洗い」が実に難儀だった。米磨ぎは屋外で頬かむりをして、煙突で暖をとりながら何升も洗い、炊き終わった釜はまた冷たい水で洗う。手は荒れ、指の間が赤く切れて割れ、赤切れの状態でした。就寝前には何時もハンドクリームで「桃の花」と言う軟膏を擦り込んで寝るのが日課であった。三年時の昭和三六年四月二七日、新学期に多数の女子学生が入寮し大変混雑した。午前三時三○分起床、いつもの米磨ぎの仕事から始まる。料理長の三田喜造さん(北多磨)、加茂和夫さん(世田谷区北沢町)、長谷さん、私と同じ境遇の同期鈴木重信(福島)、これまた苦学生で二年生の阿野廣(香川)が新しく加わった。一釜で九升炊け、六○人分、五釜全部使って三○○人分、この時は四二○人分であるから更に二釜分追加で炊くことになる。みそ汁も三釜分あり、朝は朝で釜洗いだけでも超多忙となった。一人一合五勺で目方六○○g、沢庵一切れ二○gが標準であった。食器は金の茶碗に金