ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

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概要

国士舘史研究年報第7号

国士舘史研究年報2015 楓?114がうまかったこと。はげ落ちた木の弁当箱に入っていたのは雑炊のようなものだったと記憶している。今でも思い出されるのは諸先生方である。お名前は記憶していないが、ニックネームだけは不思議に覚えている。「ターザン」(注―大野光起?体操)、「びわだる」(注―氏名不詳)のお二人。いずれも屈強なお身体であった。授業も厳しかった。私が教科書を忘れた日、あいにく担当は「びわだる」先生であった。「やられる」と思った瞬間、ビンタを喰らった。だが五本の指ではなく二本の指であった。痛さは感じなかった。先生の思いやりではなかったかと今でも思っている。印象に残っている先生がもう一人おられる。背の低い、どこか病弱のようにみえた国語の先生(注―氏名不詳)だが、その反面、授業はとても厳しかった。いつも咳をしており、笑った顔を見たことがなかった。今でもその表情が忘れられない。ただ、一歩教室を出て、廊下などでお会いすると、非常に優しい態度で私に接してくださった。これは私の推測だが、私の父間宮直香の兄が間宮茂輔という作家で、代表作『あらがね』は芥川賞にノミネートされたほど評判を呼んだ作品であったこともあり、国語の先生が私と伯父茂輔の関係をご存知であったのかもしれないと、思うことがあった。ちなみに、私の父間宮直香も国士舘と縁があり、戦中で短期間のことであったと思われるが、国士舘高等拓殖学校でマレー語を教授していたと家族から聞いている。父は戦中、外務省から海軍司政官としてインドネシアのボルネオに派遣され、終戦後三年経って帰国した。帰国後は千葉県立東葛飾高等学校で教師を勤め、退職後はもっぱらインドネシア文学の翻訳をしていた。ある日、先生から「今日は靴の配給がある。一組につき三足である」、一学級四、五〇人の中から三人が当たるわけだ。私もどうしても当てたかった。靴底は破れ、歩くのにも不便を感じていたからだ。といっても、物資不足の時代、そう簡単には買えるものではなかった。靴といっても布で出来た編上げ靴である。でも、当たった三人は歓喜した。はずれた他の生徒の表情は暗かった。私が二年生になった昭和一八年頃、制服が変わったような気がする。藁のようなガサガサした生地で作られ、カーキ色一色